太平洋戦争の終盤昭和18年6月日本鋼管(株)(以下NKK)鉱山部は企画院及び商工省の斡旋により、岡田英保氏から群馬鉄山の鉱業権を譲り受けた。昭和19年4月NKKは自社保有の諸鉱山並びに鉱業関係子会社を統合し、資源会社である日本鋼管鉱業株式会社を設立した。 |
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| 軍需省から、昭和20年1月より月間5万t鉱石出荷要請を受け、1月2日NKK川崎製鉄所へ向けて貨車11両編成による初出荷が行われた。4月からは日鉄八幡製鉄所向け出荷も始まった。4月はNKK向け4,002t、日鉄向け801tとなった。以降戦局は逼迫し、激しい爆撃で交通機関が遮断され、輸送力は急激に低下した。労働力不足も深刻化、事故の発生、太子側線の脱線等もあり、予定の出荷は不可能となった。 同年7月にNKK川崎製鉄所は空襲で高炉の火が消え、8月15日終戦で全山の操業は停止した。 |
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| 昭和21年3月新潟経由の船による日鉄八幡製鉄所への貯鉱出荷により、群馬鉄山の操業が開始された。4月に鉱石運搬専用線の長野原線(現吾妻線)に客車の運転も始まり、交通事情も改善された。6月NKK向け出荷の再開となった。 日本鋼管鉱業(株)は過度経済力集中排除法、財閥同族支配力排除方等で解散整理。昭和24年3月1日鋼管鉱業(株)として再出発した。昭和23年4月NKK川崎製鉄所第5高炉に戦後初めての火が入った。 |
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| 昭和24年7月初めて月産20,000tを突破、生産性は著しく向上した。当時の切羽は高さ10mもあった。日鉄鉱業(株)の釜石鉄山に次ぐ国内第2の鉄鉱山と称されるに至った。 日本製鉄(株)は昭和25年4月八幡製鉄(株)と富士製鉄(株)に分割されたので、鉱石の出荷はNKKと合せて3社となった。その後、川崎製鉄(株)の千葉製鉄所にも納入したが、昭和37年操業上の問題で中止となった。 |
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| 昭和22年6月の埋蔵鉱量は褐鉄鉱190万t(Fe50%以上)、哲明礬石(ジェロサイト)56万tと算定されたが、褐鉄鉱のうちかなりの量がFe50%を下回る低品位鉱で、そのままでは販売が難しい事が判明した。このため鉱山の延命とコスト引下げをねらいとして、昭和26年12月に太子の焼結工場の稼動が始まった。昭和28年以降当工場は年々鉱床が貧鉱化する群馬鉄山経営の中核として重要度を増していった。この間生産増加に伴い、煙害、排水問題も発生したが、その都度地元の信頼に応えた。昭和37年4月閉鎖した。なお昭和27年10月太子~長野原間の専用側線(5.7km)を国鉄に無償譲渡した。 月産20,000tは戦時以来、鉄山のスローガンであった。昭和25年に褐鉄鉱225,316tの生産を達成したが年産200,000t以上の記録は3年しか続かなかった。昭和29年になると生産は急に衰退し、90,000tの維持さえ出来なくなり鉱床の老化が顕著となった。 |
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| 昭和37年5月から終山が具体的に浮上した。38年の採掘予定は53,000t、39年も50,000tの見込みが精一杯の状況となり、この年各種の終山対策が急速に進められた。翌40年3月24日操業は完全に停止され、25日最後まで残った約70名の従業員出席のもとに、元山神社で終山式が行われた。昭和19年から20余年間、約300万tの鉄鉱石が採掘され、戦後日本の鉄鋼業再建と、六合村の地域振興に大きく貢献した群馬鉄山も、鉱量の枯渇と品位の高い輸入鉱石に対抗できずその役目を閉じた。 |
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| 昭和42年5月まで残鉱整理の為の採掘や施設の撤去が行われた。 昭和41年11月旧NKK及び関係会社の厚生施設を設け、いわゆる観光開発とは異なるレクリエーションの場、清潔にして健全な観光開発事業の開発母体として鋼管開発(株)(現JFE奥草津(株))が設立された。露天掘鉱山跡地を治山治水し、植栽・育林を繰返し、時の流れと伴に、茶褐色の荒野は、緑が溢れ豊かな自然が回帰した。現在の奥奥草津休暇村に姿を変えている。 |
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